Main Menu

想像力の欠如とポピュリズム

「ポピュリズム(populism)という言葉は、日本語では「大衆主義」「大衆迎合主義」などと訳されることが多いようです。

 一般的に、大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想や政治姿勢のことを指し、(否定的な意味を込め)以前は「衆愚政治」などと訳されることもあったと聞きます。

 そもそも「民主主義」は民意を基礎とするものなので、民意に従うことを「衆愚」とすることには(これをエスタブリッシュメントの「驕り」として)反発する向きも多いでしょう。

 しかし、その一方で、民衆全体の利益を安易に想定しこれを煽ることは少数者への抑圧などにつながる危険性もあるという意味で、冷静さや展望を欠いた大衆迎合によって衆愚政治に転じる危険性は確かに存在すると言ってよいかもしれません。

 ポピュリストの立ち位置は、「エリート」と「大衆」を分断し対比させたうえで、大衆側を代表する立場から扇動するような急進的・非現実的な政策を声高に主訴えるところにその大きな特徴が見られます。

 対立する勢力を「敵」とみなして攻撃することで結束していくその性格から「排外主義」と結びつきやすく、第2次世界大戦前に台頭したファシズムもポピュリズムの一種と位置づけられることが多いようです。

 特に近年の欧米諸国では、グローバル化の進展による格差の拡大や移民・難民の増加などへの反動が、ポピュリズムを掲げる政治家の増加につながっていると指摘されています。移民排斥などを訴える(こうした)極右のほか、バラマキ型の政策を掲げる左派のポピュリズムも勢いを増しているという指摘もあります。

 こうして、時代を語る上での新たな「キーワード」として広く認識されつつあるポピュリズムについて、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が自身のブログ(「内田樹の研究室」2019.5.27)に「サル化する世界」と題する興味深い論考を掲載しているのが目に留まりました。

 内田氏はこの論考において、(「私見によれば」と前置きしたうえで)ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことだと説明しています。

 「今さえよければいい」というのは、(言い換えれば)時間意識の縮減のこと。平たく言えば「朝三暮四」の逸話にある「サル化」のことだと氏は言います。

 春秋時代の宋の時代、朝夕四粒ずつのトチの実を与えていたサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案したところサルたちは激怒したが、「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案すると大喜びしたというあの話です。

 このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似しているというのが氏の指摘するところです。

 「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」と分かっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない。現代社会にはそうした人間が増えているということです。

 「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)によるものであるが、さらに「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」という自己同一性の空間的な縮減も亢進していると氏は見ています。

 自分と国籍が違う、生活習慣が違う、政治的意見が違う人々を、「外国人」と称して排除することに特段の心理的抵抗を感じない人がいる。幼児や老人や病人や障害者を「生産性がない連中」と言って切り捨てることができる人がいる。

 彼らは、自分がかつて幼児であったことを忘れ、いずれ老人になることに気づかず、高い確率で病を得、障害を負う可能性を想定していない。自分が何かのはずみで故郷を喪い、異邦をさすらう身になることなど想像したこともないだろうと内田氏は言います。

 見知らぬ土地をさすらい、やむにやまれず人の家の扉を叩いたとき、顔をしかめて「外国人にやる飯はないよ」と言われたらどんな気分になるものかを想像したことがない人たちだということです。

 さて、「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない氏はしています。倫理の「倫」は「なかま、ともがら」の意。他者とともにあるときに、どういうルールに従えば自己利益が増大するかの理論だということです。

 例えば、渋滞している高速道路で走行禁止の路肩を走るドライバ―は、他のドライバーたちが遵法的にじっと渋滞に耐えているときにのみ利益を得ることができると内田氏は言います。

 全員がわれ先に路肩を走り出したら彼の利益は失われ、全員の利益も失われる。それを想像できればこそ、大多数の人は渋滞の道も気長に待つことができるということです。

 「倫理的な人」というのが「サル」の対義語だというのが、この論考における内田氏の見解です。なので、ポピュリズムの対義語があるとすれば、それは「倫理」であると氏はしています。

 人間の「サル化」がこの先さらに亢進すると、「朝三暮四」を通り越して、ついには「朝七暮ゼロ」まで進んでしまう。そのときにはサルたちはみんな夕方になると飢え死にしてしまうので、そのときにポピュリズムも終わることになると氏は説明しています。

 民主主義を正常に機能させるためには、時間や空間、立場を超えて想像力を働かせること(働かせられるようリードすること)が、どうしても求められるということでしょう。

 氏が指摘するように、もしも「想像力の欠如」というものが現代のポピュリズムを支えているとしたら、私たちが今すべきことは一体何なのかと、内田氏の論考から改めて考えさせられたところです。






コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です